GRACE  仲間の手記


とりあえずこれが今の私/ロン


  私が初めてCoDA(コーダ)のミーティングに出たのは2005年の春頃でした。その一年程前に別の12ステップグループにつながっていましたが、その頃は自分の問題が何なのかわからず、いろいろなグループを渡り歩いていました。私の依存対象は、タバコ、食べ物、性、処方薬、と多岐にわたっており、「いったい、自分の問題は何なのだろう?」と、一人もがいていたのです。ACや共依存の問題も、なんとなく自覚していましたが、当時は食べ物、性、仕事への依存が強かったので、問題の本質がわかりませんでした。


 話が前後して申し訳ないのですが、私が俗に言う「底尽き体験」をしたのは大学3年生の頃でした。当時私は大学の運動部に所属していたのですが、そこでの人間関係に疲れて退部しました。時を同じくして好きだった女性にふられて、追い討ちをかけるように嫌な出来事が重なり、うつ病になってしまいました。感情的な底尽きでした。「死んでしまいたい」とか「卒業できるのだろうか?」という気持ちになり、強い希死観念や焦燥感に襲われていました。2002年の頃です。渋々、留年することに決めて、卒業してからも教員の資格を取るために大学に通いました。この頃から父親への経済的依存が強まりました。その当時は気づきませんでしたが、私は父に対して金銭的負債だけでなく、精神的な負債をも作っていました。「資格取得」という大義名分で、社会的には「学生」という身分でしたが、週に2、3回の通学を除いてほとんど引きこもっていました。人が怖くてしかたなかったのです。大学から帰る電車に乗っているのも辛くて、途中で降りてクールダウンしてから次の電車に乗る、ということもありました。


 2004年の夏に大学で発達心理学の勉強をしていた時に、いろいろな関連書籍を読んでいくうちに、自分がAC/共依存であるという自覚を持つようになりました。また、同居している兄の癇癪が怖くなり、音に異常に敏感になっていました。うつ病の治療を始めて3年・・・いっこうに快方への兆しが見えなかったこともあって、ACや共依存という言葉を知ったり、自覚したり、また自助グループの存在を知ったりして、初めて服薬以外の方法で、うつを治せるかもしれないという希望を持った時期でもありました。


 感情問題を扱っている自助グループにさしあたり出ることにしました。2004年9月頃でした。ニコチンと食べ物への依存が最高潮に達していました。相変わらず昼夜逆転で引きこもりの生活・・・そんな中、教育実習に行きました。自分のことで精一杯で、子供どころの問題ではありませんでした。


 2005年の10月に初めてのステップ5をやりました。この時にもまだ自分の問題は、はっきりと自覚できませんでした。相変わらずニコチンと食べ物に依存していました。2006年6月、長いモラトリアムを経て、ようやく非常勤の教員として働くことになりました。その3ヶ月間は非常勤だったこともあり、仕事とミーティングのバランスが取れていました。しかし次の勤務先が地獄でした。臨時任用でしたが、仕事の量は正規職員と同じでした。それまでの長い引きこもりの期間で、体力がすっかり落ちていましたし、スポーツや交通事故の古傷が一気に悪化し、それと同時に寛解していたうつ病も再発し、3ヶ月で仕事を辞めてしまいました。2007年の1月のことでした。


 相変わらずニコチンと食べ物に依存していました。仕事もできない、かと言って摂食障害のグループは自分には合わないと感じていました。ありとあらゆる種類のミーティングに出尽くした感じがありました。ACのグループも自分には合わないような気がして、自然と行かなくなりました。今度こそ本当の底尽きでした。仕事ができる体ではない。かと言って金銭的・精神的に膨大な「借り」を作っている父親と一緒にいるのも限界でした。


 そんな時に ―本当に奇跡的と言っていいくらいに― 精神保健福祉手帳を頂くことができました。やめたくても止められなかったタバコが止まりました。少しずつ運動をするようになりました。行政の力を借りながら、ようやく自立に向かって動き始めることができました。


 気がついてみるとCoDAに舞い戻っていました。ミーティングに出て自分の父親と同世代の仲間の話に耳を傾けてみると、なんとなく共感できました。現実世界での父親にはあまりシンパシーをもつことができませんでしたが、私と同じくらいの年齢の息子さんを持つ仲間の話は、不思議と共感できました。その仲間と父親とをダブらせて「あぁ、もしかたしたら親父は、こんな風に思ってるのかな」と考えたりしました。自分自身も人間関係を ―かつて自分自身が経験してきた人間関係や、そこで感じてきた生きづらさをテーマにして話す- と不思議と頭や心がスッキリと整理されていくような感じがしました。


 不思議なことにニコチンを断ってから、過食欲求も少しずつ減退していきました。過去への悔恨と、未来への先取り不安を少しずつ手放せることができるようになってきました。自分の自己評価の低さや、人間関係の中で服従的な、あるいは支配的/作為的になっている自分に少しずつ日常生活のレベルで気づいていくことができるようになってきました。体の調子も少しずつ回復してきています。行政の力を借りて少しずつ家を離れる準備が整ってきました。ここまで育ててくれた父親には感謝していますが、今の私にとっては、実家を出て家族と物理的な距離を取ることが大切であると自然と思えるようなってきました。CoDAのミーティングに定期的に出ることで自分が陥りやすい状態を意識できるようになってきています。


 自分の場合は、「自己評価が低くて、決断力がなく、優柔不断であり、故に物事を継続する力がない」ことが問題でした。人間関係の中では、見捨てられ不安が強く、見捨てられる前に自分から関係を切ってしまったり、自分の考えより相手の考えが優れているように感じました。裏を返せば私は、人間関係でも仕事でも、自分で選ぶこと、そしてそれに付随する責任を取りたくなかったのだと思います。自分より有能そうな人に依存していれば自己決定・決断しなくて済んでいたのですから。また私にとっての人間関係は、自分の価値を示すアクセサリーのようなものでもあったような気がします。友達がどれだけたくさんいるか、どれだけ容姿の美しい女性と付き合っているかで自分の価値が決まると真剣に思っていました。今の私には友達も恋人もいませんが、そんな自分が好きです。


 少しずつ自分で選ぶ人生を歩めている気がします。人に自分の価値を決めてもらっていたときには、自分の行動に責任を取らなくて済みましたが、今の私の人生には自由と選択と責任が与えられています。ずっと「責任」という言葉が嫌いでした。義務のような窮屈な感じがしたからです。今は、「俺の人生だ、失敗してもいいんだ」と思っています。


 対等、ということも少しずつ実践しています。かつての私は卑屈になったり被害者ぶったり弱者ぶったりすることで、これまた責任回避していたのです。自分が弱々しくしているときには母性の強い女性や、兄貴肌の男性が寄って来ました。そうやって自分より強い人に依存して人生を導いてもらいたかったのです。


 今の私にはハイヤーパワーという人生のガイドがいます。ミーティングそのもの、それが私にとってのハイヤーパワーです(人をハイヤーパワーにしているときには辛かった)。


 私は、自分がこれからどんな人生を歩んでいきたいのか、どんな人間になりたいのか、まったくわかりません。でもわからなくてもいいんだ、今日一日できることをやろう。そう、24時間のことだけを考えていればいいのです。昔の自分には考えられないことでした。


Keep coming back, it wroks!というスローガンがあるように、来続けたいです。

 ーーーロンーーー

2008年5月